黙示録11章15節〜19節                第七のラッパ:黙示録後半への序文

 黙示録11章15節〜19節を学びます。


 15節
 「さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される』」


 「さまざまな大声」とは、恐らく黙示録4章に出てくる四つの生き物の声を指すと考えられます。4章では、24人の長老より先に賛美をささげています(4:8)。15節においては、24人の長老の賛美に先立つ声ということで、四つの生き物の大声と考えることになります。


 「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった」、第七の天使のラッパの合図に応えるかのように、四つの生き物が叫んだ言葉の内容です。神の国の成就を意味し、その宣言とも受けとれます。それは再臨によってもたらされる栄光の王国です。


 前の黙示録10章7節に「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する」という言葉がありました。それは、この11章15節のことを意味します。


 ※ところで、「神の秘められた計画」について、少し調べてみましょう。なぜなら、この言葉が、新約聖書で用いられるとき、それぞれの箇所で、意味することが異なることがあるからです。「神の秘められた計画」は、神の啓示によって明らかにされ、信じる者に理解されることを意味します。


「神の秘められた計画」
キリスト―コロサイ1:26
キリストの受肉―Ⅰテモテ3:16
キリストの再臨の時、信徒の復活―Ⅰコリント15:51以下
花嫁としての教会―エフェソ5:32
異邦人に福音が伝えられること―エフェソ3:1−6


 「主は世々限りなく統治される」、神の完全な支配が永遠に確立されることを意味します。信じる者にとっての祈りが完全に成就するのを見ます。


 16節、17節
 「神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、神を礼拝し、こう言った。『今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです』」


 天からの大声に続いて、二十四人の長老の礼拝における感謝が続きます。その礼拝における感謝は、統治された神にささげています。


 「今おられ、かつておられた方、全能者である神」、二十四人の長老の神に対する呼びかけの言葉です。


 「今おられ、かつておられた方」という言葉の中に、「やがて来られる方」が入っていません。このことは、今や「この世の国」が神のものとなり、神の完全な統治がなされたことを意味しています。参考までに、黙示録1章4節、5節、8節、4章8節を参照してください。


 18節
 「『異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも 報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを 滅ぼされる時が来ました』」


 先の17節の聖句をもって、神の御業の完結をみました。


 ところで、今、ここに挙げました18節を見ると、戸惑いを感じます。それは、同じ礼拝の中でありながら、18節で言葉が突然変わるからです。感謝をささげた後の言葉が突然変わるとその前後の関連でどうなっているのかという疑問が湧くのです。礼拝の感謝の後で突然、現実の地上の終末的状況が述べられているので戸惑ってしまいます。前置きや説明がないのでどう考えたらいいのでしょう。


 そこで、ポーリーン博士の解釈は大きな助けとなります。


 ポーリーン博士の「黙示録講義第3巻『黙示録後半への序文(11の18〜19)』」(53頁〜57頁)の記述に従って、18節について解説していきます。あくまでもポーリーン博士の解釈に基づいていることを記しておきます。


 もう一度、17節、18節の礼拝における二十四人の長老の言葉を記します。
 「『今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです(17節)。


 異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも 報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを 滅ぼされる時が来ました(18節)』」


 17節、18節は二十四人の長老たちのまとまった一つの賛美です。17、18と節で区切られているように見えますがそうではありません。


 ところが内容的に見ると、17節と18節の間には飛躍が見られます。天上での礼拝から、地上での終末的状況に場面が変わっています。


 17節では、第一の天使のラッパから始まったことが、今ここに第七の天使のラッパを持って終局に達し、神に対する感謝で終わっていることを見てきました。


 ところで、一見飛躍と見られる18節は、同じ終局の賛美の中の言葉でありながら、何を示そうとしているのでしょうか。
 

 ポーリーン博士の解説によると、実は、18節はこれから学びます12章以下の序文であるというのです。
 18節が第七の天使のラッパの終局でありながら、それが12章以下の序文であるということはどういうことなのか、ポーリーン博士の説明を少し長くなりますが、引用します。


 「ほとんど本という本は、一定の順序に従って書かれています。特定の章には、先ず序文があり、その章の本論が続き、その上で結論部分があります。その後に次の章が続きます。その章の序文、本論、そして結論といった具合です。ところが黙示録には、これらと異なる配列が見られるのです。このことに関しては、『神の深み』の中でかなり詳しく述べました。ひとつの項の結論を述べて、次の項目に進むという方法を採らないで、黙示録の著者は、新しい章の序文を先の章の結論部分と結びつけて一緒に記しているのです。この手法が用いられている典型的な箇所は、黙示録3の21です。即ち、この聖句の中に七つの教会の頂点となる勝利者への約束と、七つの封印の序文となる、御子が父と共に玉座に就く事柄とが一緒に記されているのです。黙示録3の21には、勝利者がキリストと共に座に就くという七つの教会の頂点が約束されています。それと同時にこの聖句は、七つの封印への計画的な序文となっているのです。


 同じことが第5の封印にも見られます。四つの騎手の頂点部分が、七つのラッパの序文となる重要な質問と一緒に述べられています。黙示録6の10の


 『いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の報復をなさらないのですか』という言葉です。これが七つのラッパによる裁きの序文となっているのです。・・・・


 黙示録11の18に同じ技法が採られていることが分かります。11の18は、七つのラッパの頂点となる箇所です。この箇所で、地上歴史を終わりに導く七つのラッパの要約がなされています。ところが興味深いことに、黙示録11の18には、黙示録後半部分の主要な項目が前もって述べられているのです」(黙示録講義第3巻53頁〜54頁)。


 ポーリーン博士の解説の長い引用となりました。


 黙示録3の21、6の10、11の18は、それぞれひとつの頂点となる部分ですが、それは、次に続く文章の序論となっているのです。


 黙示録11の18が12章以下の序文となり、しかも黙示録後半部分の主要な項目が述べられていると言われます。そのことをポーリーン博士の解説に沿ってご紹介します。


 18節の聖句を載せておきましたが、その聖句の中に基本的な五つの記述がなされています。


(1)異邦人たち(「Nations[国々]」―NIV)は怒り狂う。
(2)あなたも怒りを現された。
(3)死者が裁かれる時が来た。
(4)あなたの僕たちに報いをお与えになる時が来た。
(5)地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来た。


 以上の五つの項目は、七つのラッパの頂点となっているばかりでなく、黙示録後半の出来事の主題となっているのです。黙示録後半の主要な出来事の「見出し」の役割をしているのです。以下にそれを見ていましょう。


 五つの項目を聖句に照らして実際に見てみましょう(引用聖句を記してませんので聖書で参照してください)。


(1)異邦人(国々)たちは怒り狂い―黙示録12の17の竜は「激しく怒り」のその怒りが原語では同じ言葉です。


(2)あなたも怒りを現された―黙示録15の1に要約されています。


(3)死者の裁かれる時が来た―これは黙示録20の12の千年期における裁きの聖句を思い出させます。


(4)あなたの僕たちに報いをお与えになる時が来た―黙示録22の12の「それぞれの行いに応じて報いる」に対応します。


(5)地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来た―黙示録19の2の「地上を堕落させた」は、ギリシャ語では「地を滅ぼす」と同じ言葉です。


 以上の五つの項目(句)とそれに対応する聖句を見てきました。それぞれが黙示録後半の五つの主題に相当する句なのです。


 さらに、ポーリーン博士は、11の18節の五つの句とそれに対応(類似)する五つの聖句は、いずれもそれぞれの主題を要約している重要な聖句ばかりであると述べています。


 「たとえば、最初の項の黙示録12の17は、黙示録13章、14章に記されている竜と残りの者たちとの戦いを要約する決定的な聖句です。ある意味において黙示録12の17は、黙示録13章、14章において展開される出来事を、前もって要約している聖句なのです」(黙示録講義第3巻55頁)。


 「『神の怒りがその極みに達するのである』という黙示録15の1の聖句は、七つの災いの連続的に起こる出来事全体を前もって要約している聖句です。・・・黙示録15章から18章までが要約されていることになるのです」(前掲書55頁〜56頁)


 「『死者の裁かれるときが来た」という句は、黙示録20章に注目させます。そこに再臨後の千年期の出来事が記されています」(前掲書56頁)。


 「『報いを携えて来る』という句は、黙示録最後の2章(21章、22章)、即ち、新しいエルサレムと聖徒たちへの報いに注目させます」(前掲書56頁)。


 「『地を滅ぼす者どもを滅ぼされるときが来た』という句は、黙示録19章に記されている地上に住むすべての悪人の滅びに注目させます」(前掲書56頁)。


 以上のようにポーリーン博士の解説を頻繁に引用させてもらいました。それは、私にとって黙示録を構造的に理解するには、新しい視点でしたので、同じく皆さんにも黙示録の後半部分を理解するのに助けになると思ったからです。


 今回は11章18節を主に、ポーリーン博士の解説を中心に紹介させていただきました。


 次回は、黙示録12章に入りたいと思いますが、復習を兼ねて、ポーリーン博士の解説を、「神の深み」を用いてご紹介させていただきます。そして、「黙示録講義第3巻56頁」にあります黙示録後半部の構造図を合わせてご紹介します。



にほんブログ村

黙示録11章7節〜13節 二人の証人の死と復活

  今回は、引き続き黙示録11章の7節から13節を学びます。


 7節にあるように、二人の証人の証が終わります。すると、底なしの淵から上って来た一匹の獣によって、二人の証人は殺されてしまいます。


 8節〜10節に、殺された二人の証人の死体が都の大通りに放置され、地上の人々がそれを眺めて大いに喜ぶ様子が描かれています。


 11節、12節は、二人の証人が三日半たって、神からの命の息で生き返り、天からの声の呼びかけにより、雲に乗って天に上ります。


 そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、七千人の人が死に、残った人々が恐れを抱いて天の神の栄光をたたえます(13節)。


 14節は、第二の災いが過ぎ去ったことと、第三の災いが近いことを予告しています。


7節
 「二人がその証を終えると」


 二人の証人の証言が終わる時期というのは、3節の「千二百六十日の預言する」期間が終わったことを意味します。


 歴史的に見ると、いつの時代を指すのでしょう。
黙示録の背景となっている、ダニエル書7章を学びました時に、1260日は、預言の期間1260年であり、紀元538年(オストロゴスのローマからの追放)から数えて1789年に至ることを示してきました。


 結論として、二人の証人の証言が終わるのは、1789年となります。
預言の歴史の舞台となっているヨーロッパの歴史をみますと、丁度フランス革命(1789年勃発)が起こり、その影響下にある時代でした。


 「一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」


 二人の証人が預言が終わる時に、彼らに挑んだ獣が証人たちを殺してしまいます。


 この獣の正体は何でしょう。ポーリーン博士の解説を参考にしたいと思います。


 「サタン自身か、それとも二人の証人を攻撃する、世俗の権力の背後で働くある種の勢力を表していると思います」とあります。(黙示録講義第3巻43頁)。


 そして、獣で象徴される勢力が起こってくるのと、二人の証人がその証を終えることとほぼ同じ時期であるということです。同じくポーリーン博士の引用を載せます。


 「『一匹の獣が、底なしの淵から上って来て・・・』とあります。『上って来て』と訳されている動詞は、ギリシャ語では『現在分詞』が用いられていて、それは通常、『文中の主要な動詞で示されている行動と同時に行われる行動」を表しています。そこで、二人の証人がその証しを終えることと、獣が底なしの淵から上って来ることとは、ほぼ同じ時に起こる出来事であると言えます」(黙示録講義第3巻44頁)。


 ところで、一匹の獣として表されたこの獣は、誰を指すのでしょう。私どもの教会の伝統的な解釈として、フランス、特にフランス革命によってもたらされた勢力です。キリスト教に対する排斥、並びに聖書に対する弾圧をしたのです。


 E.G.ホワイトは次のように記しています。
「革命と恐怖政治の時代にフランスを支配していた無神論的権力は、これまで世界になかったほどの戦いを、神と聖書に対していどんだ。神の礼拝が、国会によって廃止された。聖書は集められて、あらゆる軽蔑を浴びせられながら、公衆の前で焼かれた」(各時代の大争闘上巻、350頁)。
キリスト教を廃しする法令が、フランスの議会を通過したのは、1793年であった」(上掲366頁)。


 二人の証人が預言を終わる頃、登場した一匹の獣は、フランス革命のよってもたらされた無神論的権力でした。


 8節
 「彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」


 二人の証人は、「たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通り」に死体のまま放置されると言われます。その大きな都で二人の証人の主も十字架に付けられたのです。


 「ソドム」は不道徳、堕落した町の名前です。「エジプト」は、神に反逆し、神の民を抑圧した国です。霊的に判断すると、二人の証人も、主イエスも神に反逆する大きな都で殺されたのです。


 ※新共同訳で、「たとえてソドムとかエジプトとか」となっている箇所を、新改訳は「霊的な理解ではソドムとか・・・」となっており、岩波訳の注では、「たとえて」について、「文字通りには『霊的に』。霊的な力は物事の本質を見抜くことができるのであって、その霊的な力によって、その都の正体を言い当てる仕方によれば、の意味」となっています。


 二人の証人が、ソドムやエジプトで殺され、死体をその都の大通りに放置されたということは、文字通りの意味ではなく、霊的に判断すれば、ソドムやエジプトのような神に逆らう都で殺され、放置されたということになります。そして、主イエスも実際は、エルサレムで裁判にかけられ、郊外で十字架につけられたのですが、霊的に見れば、ソドムやエジプトのような堕落した都で十字架につけられたのだということになります。。


 9節、10節
 「さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである」


 ここに出てくる、「さまざまな民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々」は、10章11節に出てくる人たちと同じと考えられます。つまり、宣教の対象となる人たちです。しかし、その人たちが、二人の証人の死体を眺めていて、葬ることを許さないとは、証人の言葉を拒絶し、侮辱していることになります。


 そして、「地上の人々」(聖書では悪人を指す)は、二人の証人が殺されたこと、死体が放置されて、人々から侮辱されているのを見て、大いに喜び、贈り物を交わすということ、互いに手を結んで、神とその証言者である二人の証人に反逆すると言うことです。


 「三日半」は、主イエスの墓におられた期間を思い出させます。主の十字架の死と埋葬、そして復活を暗示しているように思います。三日半は、この二人の証人の復活を予想させます。仮に、三日半を三年半と計算したとしても、二人の証人の苦難と死は、短い期間を示しているのでしょう。


 11節
 「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。


 旧約聖書の背景として、エゼキエル37章9節、10節を読みましょう。創世記2章7節も参考になります。


 フランスの教会と聖書に対する圧迫に関して言えば、三日半を考えると、その迫害は長く続かなかったと言えます。


 先に引用した、E.G.ホワイトの言葉を少し長く引用します。


 「キリスト教を廃し聖書を破棄する法令が、フランスの議会を通過したのは、1793年であった。それから三年半後にはこの法令は廃しされ、聖書を読むことを許す決議が、同じ議会において採択された。聖書を拒否した結果起こった極悪非道さに、世界は驚きを禁じ得なかった。そして人々は、神に対する信仰の必要と、神の言葉が、徳と道徳の基礎であることを認めたのである」(各時代の大争闘上巻366〜367頁)。
 

 神の霊が降って、二人の証人に入ると、復活して新たな力をおびたのです。人々が驚くのは無理もないことです。人間的に考えられないことだからです。


 12節
 「二人は、天から大きな声があって、『ここに上って来い』というのをきいた。そして雲に乗って天に上った彼らの敵もそれを見た」
 二人の証人の復活と昇天の意味するところは何かということです。
思い出すのは、主イエスの復活と昇天です。他に、エリヤとモーセを思い出します。


 主イエスの昇天の時に、全世界に出て行って証人となることをあらためて伝えられます。弟子たちは、聖霊を受けて主の証人の働きを開始します。


 エリヤの場合は、すでに弟子として召していたエリシャに、昇天後の働きを託します。エリシャは二倍の霊をもらいます。そして、働きを開始します。


 モーセは、死後復活して昇天します。彼の後継者であるヨシュアが働きを進めます。


 ここで、二人の証人の昇天も宣教に関連づけて解釈したいのです。10章の11節「再び預言する」との関連です。また、11章1節の神殿を物差しで測ることで示された、回復のメッセージのことです。


 ポーリーン博士は、11節の「恐れ」、13節の「恐れ」と「栄光」という言葉と関連させながら、二人の証人の復活と昇天は、黙示録14章7節の「第一天使のメッセージ」であると示唆しています(上掲49頁)。


 13節
 「そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る」


 二人の証人が昇天すると同時に、大地震がおこります。この出来事は、終末に起こる事件です。それは、世の終わりを示す徴です。


 残った人々が天の神の栄光をたたえるとは、大地震の徴を見て、終末における最終の神のメッセージ(三天使の使命)を聞いて悔い改める人たちです(黙示録16:9参照)。


 地上歴史の最終時代が迫るとき、福音がもう一度大きな力で宣布されますが、大きな災いが(大地震)があることも示されています(第二の災い)。そして、福音の宣布が終わると、歴史の終わりが来るのです。


幸せを約束する聖書の言葉 第1集

幸せを約束する聖書の言葉 第1集

幸せを約束する聖書の言葉 第2集

幸せを約束する聖書の言葉 第2集



にほんブログ村

黙示録11章3節〜6節 二人の証人の正体は


 今回の学びは、黙示録11章3節〜14節の中の前の部分、3節〜6節までです。


 3節
 「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」


 ここで、「わたしは」と自ら名乗っているいる方は、10章5節、8節「天からの声」を発している方を指すと考えられます。


 「二人の証人」は、旧約聖書では、申命記19章15節に記されている、裁判の証人について思い出させます。ひとつの事件に関わる、二人の証人がいて、その二人の供述が一致した場合、事件が立証されたとみなされるのです。証人が二人ということは、その事柄の(例えば事件)真実性、確実性が確保されるのです。


 「預言させよう」というその言葉の中に、神的権威と預言する力を二人の証人に与えたことを意味します。


 「粗布」は、預言者がその任務を遂行するときに着る服と言われます。また、悲しみや悔い改めを表すときに着る服とも言われます。預言者は、その働きの中で、神の民の罪とその結果を身に受けて活動しましたし、迫害という苦難の中で、神の言葉を伝えましたので、粗布を着ることがふさわしい服装だったとも言えます。


 「千二百六十日の間」、2節の「42か月」と同じ期間を表します。同じ期間を表しながらも、千二百六十日は、圧迫、迫害される神の民の側を述べる際に使われ、同じ期間を表す42か月は、悪人の神の民を圧迫、迫害する期間として用いられます。


 4節
 「この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」


 4節の聖句は、ゼカリヤ4章1節〜3節を背景にしていると思われます。そこでは金の燭台、二本のオリーブの木が出てきます。そして、ゼカリヤ4章13節、14節を見ると、二本のオリーブの木は、「二人の油注がれた人たちである」と言われます。結論から言いますと、当時、エルサレムの神殿の再建に取り組んでいた、大祭司ヨシュアと民の指導者ゼルバベルを指します。


 つまり、二人の証人とは、大祭司ヨシュア、総督ゼルバベルのような働きをする人たちということになります。神の言葉と霊の力によって、神の御業をすすめる人たちと言えます。具体的には、神殿の回復に関係があります。


 5節
 「この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ず殺される」


 5節、6節を見ると、二人の証人の働きが出ています。
「彼らの口から火が出る」という箇所は、旧約の背景では、エリヤの働きを思い出します。


 列王記上18章20節〜39節と列王記下1章9節〜14節です。ということは、二人の証人は、エリヤのような預言者の働きをするということになります。


 6節
 「彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる」


 「雨が降らないように天を閉じる」 旧約聖書の背景を見ると、列王記上17章1節にエリヤがアハブ王に伝えた預言が出ています。また、新約聖書のルカ4:25、ヤコブ5:17にもエリヤのことが記されています。


 「水を血に変える」、「あらゆる災いを血に及ぼすことができる」と二人の証人について述べられていますが、旧約の背景で見ますと、モーセによるエジプトでの災いを思い出します(出エジプト7章〜8章)。


 以上の3節〜6節の聖句の旧約聖書の背景から、二人の証人は神殿の回復のためには働く大祭司ヨシュアやゼルバベル、預言者として働いたエリヤ、それに預言者であり指導者であったモーセの働きを、千二百六十日の間することになります。そして、決して無力ではないのです。


 さて、千二百六十日の間、預言者の働きをする二人の証人とは具体的には誰かということです。


 二人の証人の働きは、旧約の預言者のような働きをであることを今までの説明でいたしましたが、しかし、二人の証人に関して、特定の具体的な名前は、聖書の中では挙げられていません。また、二人の証人を特別な人たちに当てはめるのは困難です。


 そこで、ポーリーン博士のやステファノビッチ教授の解説を見ますと、その働きを担うのは、神の言葉の聖書か、または全世界に福音を伝える神の民(教会)いずれかを象徴していると言われます。
 

 確かに、教会も聖書も二人の証人の働きを歴史の中でしてきています。 歴史的に見て、聖書が特別に取り上げられたり、また教会が注目されたりすることがありました。それが聖書に対する攻撃であれ、また教会に対する迫害であったとしてもです。


 しかし、聖書と教会は不可分一体です。聖書は教会の説き明かしなくして伝わりません。また、教会は聖書なくして、正しい福音理解をすることができないのです。


 教会は困難な時期に聖書に支えられ、聖書は教会を通うしてその真理が伝えられたのです。
 

 二人の証人は果たして誰であるのか、どれか一つに決めるのは困難です。
あえて答えるとすれば、教会であり、聖書と言えるのではないでしょうか。


 二人の証人は、千二百六十日の間、迫害と圧迫の中で、神の御心を伝え、神の御業を進めたのです。


にほんブログ村

黙示録11章1節ー2節  神殿を測る

 いよいよ黙示録11章に入ります。


 今回は、11章1節2節の学びになります。


 11章1節2節は、10章と深く関係していて、特に小さな巻物との関係は切り離すことができません。そして、小さな巻物はダニエル書の預言と深く関わっています。

 
 ですから、小さな巻物は、ダニエル書だと考えられますし、また、ダニエル書に、新たなメッセージが加わった書だとも考えられています。


 特に、黙示録12章以下のことを小さな巻物は示していると、ステファノビッチ教授の見解を先に載せておきましたが、そのことから、小さな巻物は、ダニエル書含む包括的なメッセージを持つ、書物と考えることができます。


 ところで、小さな巻物が、ダニエル書と深く関わっているという事実は、黙示録10章5節6節の天使の誓う姿が、ダニエル書12章7節の天使の誓う姿と共通しているところから考えられています。


 そして、ダニエル書12章7節の預言「一時期、二時期、そして半時期たって、・・・これらのことはすべて成就する」という聖句と、黙示録10章6節の聖句「もはや時がない」(「もはや時が延ばされることはない」新改訳)と呼応して、預言の成就を力強い天使は誓ったのだと解釈してきました。


 以上のことが、10章1節〜7節までの主な内容だと思います。


 続いて、10章8節〜11節を見ますと、やはり、ここでも10章の前半と同じく、小さな巻物が主要な役割を担っています。


 10節を見ますと、小さな巻物を食べると、「それは口には蜜のように甘かったが、食べるとわたしの腹は苦くなった」とあります。その経験は、何を意味するのでしょうか。


 「食べる」ということは、御言葉を食べる、即ち、神の言葉を充分に心に取り入れることを言います。


 神の生命の御言葉は、魂にしみわたり、うるおし、豊かにして、それは口には甘い経験となるのです。


 しかし、その経験がどうして、苦い経験に変わったのでしょう。
それは、ダニエル書の預言解釈の間違った理解から来るものでした。


 ところで、黙示録10章の中で、預言のどこをどう間違えて解釈したのかは、示されてはいません。そこで、先ほどの10章5節6節を、関係のあるダニエル書12章、それに7章、8章、9章の預言と合わせて考えていく必要があります。特に、その中で、ダニエル書8章14節の預言が重要になります。


 SDA教会のパイオニアたちの経験を見ると、ダニエル書8章14節の預言解釈から引き出された間違いが、ヨハネのように「腹は苦くなった」経験を生み出すのです。そして、正しい理解を得たとき、10章11節の「・・・再び預言しなければ「ならない」という出来事が起こるのです。


 10章10節と11節の間に、ダニエル書8章14節の解釈の間違いからくる失望(腹に苦い)と新たな正しい解釈によるメッセージを得た経験が隠されていることになります。


 そして、「再び預言する」メッセージの内容が、黙示録11章1節2節に示されていることになります。


 ※ダニエル8章14節の預言の解釈は、聖所(神殿)の回復のメッセージであり、それは11章1節につながるメッセージです。


11章1節
「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。『立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」

 ヨハネは杖のような物差しを与えられて、神殿と祭壇と礼拝している者たちを測るように命ぜられます。そのことは、何を意味するでしょうか。


 そのことを理解するために、背景となる旧約のエゼキエル書40章〜48章に記されている神殿が、測られていることが参考になります。


 エゼキエル書で神殿が測られているのは、神殿の再建と神と民との交わりの回復を意味していました。特に、エゼキエル43章7節〜9節に、そのことが要約されています。


 エゼキエル書の背景から考えて、黙示録11章1節は、神殿の回復ー神殿の働きの回復を意味していると考えられます。そのことは、神と人間との交わりの回復、救いの御業がなされることを意味します。


 もう一つ、11章1節の意味することがあります。それは終末直前の裁きです。それを理解するには、やはり旧約聖書の背景を知る必要があります。


 参考になるのは、レビ記16章16節〜19節、30〜31節です。このレビ記16章に記されていることが、終末直前の裁きを表すということについては、詳しい説明が必要となります。とても重要なことなので、レビ記16章についてはあらためて学ぶ必要があります。


 他にも測る行為が裁きを表している聖句があります。サムエル記下8章2節です。


 測ることによって、殺される者、生かされる者、両者が分かたれます。裁きは、善と悪を分かつことを意味します。


 以上のことから、黙示録11章1節は、終末時代の聖所の働きの回復と裁きを示しています。


11章2節 
「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」


 わたしは、2節を解釈するのに、幾つかの困難を感じました。


 一つは、神殿の外の庭に関するものです。ポーリーン博士によれば、別紙の図にあるように、外の庭は、神殿の境内の祭壇のある場所を指しています。異邦人はそこに入ることはできません。異邦人の庭にしか入ることはできないのです。しかしどうして、神殿の境内の場所を異邦人に与えられたのでしょうか。


 ポーリーン博士によれば、実は、異邦人は不忠実なイスラエル人をさし、今日で言えば、不信の信徒を意味します。すると、たしかに不忠実であっても、不信仰の信徒であっても、外の庭(境内)に入ることができます。


 問題は、彼らが四十二か月の間、聖なる都を踏みにじるということです。
確かに、不忠実なイスラエル、不信仰な信徒によって、聖なる都が踏みにじられる原因にはなったでしょうが、聖なる都を踏みにじったのは、聖徒を迫害した異邦人でした。


 ポーリーン博士があげている、いくつかの聖句は、そのことを示しています。ルカ21章24節、ダニエル7章25節、ダニエル8章13節です。


 以上のことから、2節をどう解釈するのか、もう少し調べる必要を感じました。今のところ、ポーリーン博士、ステファノビッチ教授以外、2節に関して説明しているのが、見つかりませんでした。


 今回の学びは、1節が中心となりました。それは、再び預言するメッセージの内容であり、聖所の働きの回復―イエス・キリストの救いの御業の回復です。そして、同時に終末前の裁きをも含む働きを含みます。


 なお、1節に出てくる神殿は、ヨハネが幻によって与えられたものであって、地上の神殿ではありません。ヨハネの時代には、エルサレムの神殿は存在せず、ローマに滅ぼされたからです。



にほんブログ村

黙示録の背景となるダニエル書の預言(そのⅡ)


 前回は、黙示録の背景として、ダニエル書7章を学びました。


 特に7章25節の「一時期、二時期、半時期」の預言は、ダニエル書12章7節の「一時期、二時期、半時期」の聖句と合わせて、黙示録10章6節の「もはや時がない」と密接な関連があります。


 黙示録6章6節の学びにおいて、「もはや時がない」は「一時期、二時期、半時期」の預言がすぐにも成就するということを学びました。


 しかし、もう一つ大切なことは「もはや時がない」(黙示録6:6)との関連において、ダニエル書8章14節の二千三百日の預言も考える必要があります。その預言も「一時期、二時期、半時期」の後にまもなく成就するからです。


 また、黙示録10章8節〜11章1節との関連おいても、ダニエル書8章14節は大きな意味を持ちます。


 今回の学びは、8章、9章ですが、その中でも、8章14節の「彼は続けた。『日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」という預言の聖句が中心になります。

 
 では、ダニエル書8章、9章を読みましょう。


 8章1節に「ベルシャツァル王の治世第3年」とあります。恐らく紀元前548年〜547年にダニエルに幻のが与えられたものと思われます。


 ダニエル7章の幻は「バビロンの王ペルシャツァルの治世元年」とありますから、前550年〜549年の頃でしょう。


 ダニエル章の2章のネブカドネツァル王に与えられた幻は、前603年と考えられます。その時から数えると半世紀以上経っています。ダニエルも高齢になっています。


 8章では、1節〜14節までと15節〜27節に分けられます。


 1節〜14節はダニエルが見た幻で15節〜27節は幻の解説となっています。


 1節〜4節は、一頭の雄羊が出てきます。長い二本の角を持っていますが、一つはもう一方の角より長いのです。


 20節の天使ガブリエルの説明によると、雄羊はメディアとペルシャの王(国)であるといわれます。


 5節〜8節は、一本の角の生えた雄山羊の登場です。その雄山羊の非常に盛んな時に角がおれ、その代わりに四本の角が生えて、四方に向かいます。


 21節、22節の解説では、雄山羊はギリシアの王(国)を表します。雄山羊の一本の角が折れた後生じる四本の角は、四つの王国(カッサンダー、リシマコス、セリウカス、プトレミー)を表します。


 9節〜14節は、小さな角の出現です。


 2章、7章では、ローマ帝国が出現し、その後十の国に分裂し、そこから法王制が出現することになっていました。


 ここでは、一つの小さい角しか出てきません。ローマ帝国や法王制はどうなったでしょう。24節以下の解説を見ても、小さな角の性質は述べられてはいても、具体的に何をどう指すのかはっきりしません。


 しかし、解説書を調べてみると、9節の小さな角がローア帝国を表し、10節以下の小さな角が強大になっていくのが、ローマ法王制を指すと考えられます。


 理由として、9節では、小さな角は、南(エジプト)、東(ギリシア小アジア・バビロンまで)、「麗しい地」(イスラエル)を征服します。ギリシアの後に起こるローマ帝国を指すものと考えます。


 10節では、小さな角が「天の万軍に及ぶまで力を伸ばし」とあるように、宗教的な力をも持つようになることが示されています。


10節の語句
「天の万軍」 
24節の聖なる民と理解する。


「星のいくつかを地に投げ落とし、踏みにじった」 
星は聖徒の指導者を指すものと考えます。ローマ帝国ローマ法王制による迫害と考えます。


11節
「天の万軍の長」 
イエス・キリストを指すものと考えられます。ローマの権威の下で十字架にかけられます。


「日毎の供え物を廃し」
「日毎の供え物」は聖所でなされる奉仕を全体を指します。その聖所の働きを廃しするとは、キリストの救済の業を台無しにすることを意味します。


12節
「天の万軍」 
キリストを信じる群衆を意味します。


「真理を地になげうち」 
法王権や異教徒の教えが真理を阻みます。


13節
「いつまで続くのか」
10節から12節まで言われてきた聖所の働きを踏みにじり、すなわちイエス・キリストの執り成し(救済)の働きを阻害し、それを無力にしてきた法王制はいつまで続くのかという質問です。


14節
「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」
口語訳を見ると「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」となっています。
 「二千三百の夕と朝」は2300日になります。
預言の日数を計算する原則は、民数記14章34節、エゼキエル4章6節によって、1日は1年と計算します。
「二千三百日の夕と朝」は2300年になります。
「いつまで続くのか」という質問に対する答えは、2300年続くということになります。


 そして更に、もうひとつの積極的な答えが用意されています。
 それは、「聖所はあるべき状態に復する」というメッセージです。これは、神の人類に対する大きな答えとなるものです。


 ところで、「聖所は清められてその正しい状態に復する」は、何を意味するのでしょう。


 そこで、黙示録との関係が出てきます。黙示録8節〜10節を読むと、ヨハネが小さな巻物を受け取って食べると「口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹には苦くなった」という箇所があります。そのヨハネの経験はまた、SDA教会のパイオニアたちの経験でもあったのです。


 その原因は、「聖所」、「聖所は清められて正しい状態に復する」という聖句の解釈にありました。


 パイオニアたちは、「聖所」を地球と読み込み、「清められて」を再臨の栄光で地上が火で焼かれると考えたのです。その後、地球の完全な回復がなされると信じたのです。


 ところが、その解釈と再臨に対する期待が完全に裏切られる事態となり、大きなな失望ー腹には苦いーを経験したのです。


 聖所は地球ではなく、天にある神のいます聖所のことでした。特に、聖所の第二の部屋の至聖所の働きが天でなされるということでした。そのことが、「聖所は清められて正しい状態に復する」という意味だったのです。そして、新たな宣教の働きが始まったのです(黙示録10:11)。


 ところで、「2300日の夕と朝」の預言はいつ始まり終わるのでしょうか。ダニエル書8章の中には、始まりと終わりを示す箇所はありません。ダニエルは8章27節をみますと、「理解できずにいた」とあります。


 その十年後に預言者エレミヤの書を読んでイスラエルの捕囚からの開放の近いことをダニエルは知ります。


 ダニエルの長い祈り(ダニエル9:3〜19)の後、天使ガブリエルが遣わされ、ダニエルの祈りの答えとして、神の民のこととあわせて2300年の預言の起算点知らされます。そのことがダニエル9章24節〜27節に出ています。


 詳しい説明を省いて結論のみを述べますと、2300年の預言の起算点は、紀元前457年秋であり、それから数えて紀元後1844年秋に終わることになります。


 ※詳しいことは別紙をご覧下さい。


 SDA教会のパイオニアたちは、預言の年数や起算点については誤りはなかったのですが、「聖所が回復される」というところで、解釈の間違いを犯し失望(腹に苦い)を経験したのでした。


 では、「聖所が回復される」ということがどういうことなのか、その新たな理解がパイオニアたちを再出発をなさしめ、SDA教会が至上命令として伝えているメッセージとなったのです。


 聖所のメッセージに関して、今後学びの中でお話したいと思います。

 

黙示録の背景となるダニエル書の預言


 黙示録を理解するためには、その背景となるダニエル書の預言を知る必要があります。


 前回はダニエル書2章を読みましたが、今回はダニエル書7章を読むことになります。


 ダニエル書の中で基本となる預言は、ダニエル書2章のネブカドネツァル王に与えられた夢です。その夢は帝国の興亡を示す歴史であると共にネブカドネツァル王を通して与えられた預言ともなっています。今回の学びの7章は、2章の預言を更に拡大していきます。


 まず、復習のため、王に与えられた夢がどのようなものなのか見て見ましょう。


 ダニエル書2章31節〜36節(旧約1382頁)です。その夢の説き明かしがダニエル書2章37節〜40節(同1382頁)になります。別紙の図を参照。


 ダニエル書7章を読みましょう。
ダニエル書の後半部分に出てくる小さな角を理解するために、その背景となる歴史的事件を心に留めましょう。


 年表の⑤と⑥を見ていただきます。


 まず、⑤の中で、コンスタンチヌスのミラノの勅令(キリスト教公認313年)、日曜休業令発布(コンスタンチヌス321年)、ニカイア宗教会議(アリウス派否定325年)、ゲルマン民族大移動の開始(375年)、テオドシウスキリスト教を国教とする勅令発布(392年他宗教を禁止)、カルケドン宗教会議(キリスト論論争に終止符451年)、ローマ法王レオ一世「首位権」主張(451年)


 次に、⑥の中の、ユスチニアヌスローマ法王の首位権を認む(533年)、将軍ベリサリオス東ゴートをローマから駆逐(ローマ法王権の確立538年)


 ※年表は、村上良夫氏作成によるものです(福音社発行)。


 さて、ダニエル書7章2節〜14節(旧約1392頁)は、ダニエルが夢を通うして見た預言の幻です。


 その夢の説き明かしが、15節〜28節(同1393頁)にあります。別紙の図を参照。


 まず、7章1節〜8節に出てくる四つの獣は、ダニエル書2章に出てくる象で示された国々と平行関係にあります。

 第一の獣=バビロン帝国  

 第二の獣=メディア・ペルシア帝国

 第三の獣=ギリシア帝国

 第四の獣=ローマ帝国


 第四の獣の頭にある十本の角=十の王国 ローマ帝国が分裂して生じる十の王国(24節)、帝国の力が衰えたところへ、ゲルマン民族の侵入により成立する王国。


 アレマナイ―ドイツ

 フランクス―フランス

 バーガンディアン―スイス

 スエーバイ―ポルトガル

 バンダルス―(滅亡534年)

 アングロサクソン―イギリス

 ビシコス―スペイン

 オストロゴス―(滅亡538年)

 ヘルライ―(滅亡493年)

 ロンバーツ―イタリア


 小さな角の出現=ローマ法王権の確立と権力の拡大(24節〜25節)


 ローマの教会が大きな力を持ち、教会の司教が遂に法王権を握るに至るのは、ローマ帝国における迫害を乗り越え、遂にコンスタンチヌスのキリスト教公認によって、教会が権力と結びついていったことによります。さらにアリウス派アタナシウス派によるキリスト論論争に皇帝の介入など様々な要因があります。アリウス派はキリストを父なる神と本質的に同じであると認めないことから異端として斥けられます。アリウス派を信奉していたバンダルス、ヘルライ、オストロゴス(東ドート)は滅んでいきます。オストロゴス(東ゴート)が538年ローマから追放されることにより、ローマ法王権が確立します。


 参考のために、大阪大学院教授、放送大学客員教授の江川 搵氏の放送大学テキストから一部引用します。


 「しかし、五、六世紀に地中海沿岸地方にゲルマン諸族が建てた王国では、ゲルマン人はきわめて少数であった。また彼らはキリスト教を受容したが、ローマでは四世紀末最終的に異端されたアリウス派キリスト教(キリストに人性のみを認める)を意図的に選択し、アタナシウス派キリスト教(キリストに人性と神性の共存を認め、神を三位一体のものとする)を奉ずるローマ系住民との差異化を図っていた。これらの事情からその支配はかなり不安定であり、王国としては短期間しか存続しなかった」(ヨーロッパの歴史23頁)。


 ローマ・カトリック教会の発展


 ローマの国家宗教としてのキリスト教
 「キリスト教は313年にコンスタンティヌス大帝によって公認され、392年にテオドシウス大帝によって国教化された。教会は公認前から帝国の行政組織をなぞる形で自己組織化を進めていた。地中海沿岸地方では都市区(キヴィタス)ごとに信徒を統率する司教(正教では主教と呼ぶ)が置かれ、また各地域の教会をつなぐ広域組織が作られていた。しかしそれは今や帝国を補強する全体組織として整備されるようになった。すべての都市区に司教が置かれ、司教座聖堂と司教区が設定された。また属州の行政中心となる都市区の司教は(後のカトリック世界の大司教、正教世界の府主教)と称して、その属州(教会州)の他の司教たちを統率するようになった。頂点にはローマ、コンスタンティノ―ブル、アレキサンドリア、アンティオキア、エルサレムの五つの総大司教(主教)座が置かれ、周辺の首都司教を監督した。こうした組織の中で司教たちは皇帝からさまざまな権限を委託され、その統治を支えることになった」(上掲のヨーロッパの歴史26〜27頁)。


 小さな角の特徴
 「人間のような目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた」(8節)。


 「その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。見ていると、この角は聖者らと闘って勝ったが、やがて『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」(20節〜21節)。


 「十の角はこの国に立つ十人の王 そのあとにもう一人の王が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。彼はいと高き方に敵対して語り いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され一時期、二時期、半時期がたつ」(24節〜25節)。


小さな角は神に敵対する
 「人間のような目があり、また口もあって尊大なことを語り」ます(8節)。
 「彼はいと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩ます」(25節上句)。


 ローマ法王教は、地上における「神の代理人」として宗教的権威を主張して、越権行為と思えることを主張してきました。それは、「彼は時と法を変えようとたくらむ」(25節中句)とあるように、十戒の第2条を廃止し、第四条の安息日を変更しています。それは、神の言葉である聖書の権威よりも法王権を上においていることを示し主張していることに表れています。


 神の聖徒を迫害します。
 その期間が、1260年にも及ぶことが預言されています。
 「聖者らは彼の手に渡され 一時期、二時期、半時期がたつ」(25節下句)。
 オストロゴスが538年に滅ぼされましたが、その年から1260年を数えて、1798年に至る期間となります。

一時期=ひと時=1年=360日
二時期=ふた時=2年=720日
半時期=半時=半年=180日
合計:三時期半=さん時半=3年半=1260日


 預言における1日は1年と計算します。民数記14章34節(237頁)、エゼキエル4章6節(旧約1300頁)。


 結論は預言の年数は、12600日は1260年になります。
そして、538年から1260年は1798年に至ります。その期間、聖徒は小さな角の迫害に会います。


 ローマ法王教は、権力を持つことにより、自己絶対化を図り、異教徒を迫害し、堕落していきました。聖書を第一とする信仰者は、法王権に抵触するので迫害されました。


 ローマ法王が如何に宗教的権力、政治的権力を持っていたかを次のエピソードはそれを実証しています。


 「こうした絶対無謬を唱えた法王の暴君的性格を示す顕著な実例は、ドイツ皇帝ハインリヒ四世(ヘンリー四世)に対する処置である。ハイリヒ四世は、法王の権威をあえて無視したために、破門と廃位の宣告を受けた。法王の命令に力を得て彼に反逆した諸侯たちの、離反と威嚇に驚いたハインリヒは、法王と和解する必要を感じた。彼は王妃と忠実な従者とを伴って、法王の前に身を低めるため、真冬のアルプスを超えた。グレゴリーが留まっていた城に到着すると、王は護衛もなく外庭に案内され、その厳しい冬の寒さの中で、みすぼらしい衣を着、頭には何もかぶらず、はだしのまま、法王の前に出る許可を待った。彼が三日間断食とざんげを続けた後、ようやく法王は彼に赦免を与えた。そして、それさえも、皇帝が位に服して王権を行使する前に、法王の認可を仰がねばならないという条件つきのものであった。こうしてグレゴリーは、自分の勝利に意気揚々となり、王たちの誇りをはぐことが自分の義務であると誇った」(E・G ホワイト著、各時代の大争闘上巻54〜55頁)。


 ホワイトは、法王とイエス・キリストとのお姿と対比して、なんと違うことだろうと述べている。


 ところで、法王の力が遂に地に落ちる時が来ました。それは、「一時期、二時期、半時期」の預言、1360日(年)の預言の成就でした。預言の成就した年、1898年に法王ピアス六世がフランスの将軍に捕らえられ獄中に入れらたのです。


 黙示録10章6節の「もはや時がない」、つまりまもなく一時期、二時期、半時期の預言が確実に成就することを、力強い天使が伝えたことが起こったのです。それは小さな角の裁きであると同時に将来同じ権力が出てきた場合の裁きがあることも宣言しているのです。
 

その裁きに関して、ダニエル書7章9節〜14節、22節、26節〜27節に出ています。


 しかし、今日わたしたちが心にとめるべきことは、現在のローマカトリックには以上述べたような姿は見られません。むしろ、世界的なすばらしい働きをした人が出ています。マザーテレサを始め多くの奉仕者がいます。また様々な施設を通して良き働きなされていることはご存知でしょう。


 法王は平和をもたらす特別な人として世界中の人々から注目を集めています。日本に来日した折には、国賓として特別に天皇陛下に謁見しています。そのような立場を取れる宗教家はいません。


 ※日本では「ローマ法王」の名称が馴染みがあります。推奨されているのは、「教皇」という名称です。


 ローマカトリックは、バチカン市にひとつの国として存在しています。各国に大使館があり、日本にも大使館があります。また日本も大使館をバチカン市の近くに持っています。ローマカトリックは、特別な存在であることがわかります。


 将来、世界の危機に対してどのような役割を果たすのかが、今後注目されるところです。


※別紙について:
別紙の図、及び年表を必要な方は下記へお申し込みください。(無料)
お送りいたします。
Email: xtptp117@chorus.ocn.ne.jp (ちば花園聖書同好会 儀部)

黙示録10章8節〜11節 小さな巻物を食べる


 今回、黙示録10章の後半部分の聖句(8節〜11節)を学びます。


 先ず、その箇所を読みます。


8節〜11節
 「すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。『さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。』そこで天使のところへ行き、『その小さな巻物をください』と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。』わたしは、その小さい巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。すると、わたしはこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、ふたたび預言しなければならない。』


 難しいことが書かれているわけではありません。ヨハネが、開かれた小さな巻物を食べた結果、口には蜜のように甘かったが腹には苦い経験をしたことが述べられているのです。果たして、そのことは何を意味するのか、解釈することが難しいのです。

 
 8節〜11節の聖句の中で、特に「腹には苦い」という、ヨハネの経験は何を意味するかを心に留めながら、考えていきましょう。


 「天から聞こえたあの声」 4節の「天からの声」と同じ声が、1節の「力強い天使」の持っている「開かれた巻物」を受け取るようにヨハネに命じます。


 「受け取って、食べてしまえ」 ヨハネは、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言います。天使は「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたにの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」とヨハネに言います。


 「わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」 ヨハネが天使から巻物を受け取って食べると、それは、口には蜜のように甘かったが、腹には苦かったのです。


 それは、何を意味するのでしょうか。


 いつものように、背景となっている旧約聖書から考えていきましょう。


 エゼキエル書2章8節〜3章3節です。(旧約1298頁)


 「『人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい』わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」


 エゼキエルは、神からの巻物を食べることで御言葉を受けイスラエルの人々に語るのでした。ヨハネと同じように、巻物を食べると蜜のように口に甘かったと述べています。  


 エレミヤ書15章16節(旧約1206頁)を見ると、エレミヤは御言葉を貪り食べると心は喜び躍ったとあります。巻物を食べることと、御言葉を食べることとは同じことを意味します。


 エゼキエルにしてもエレミヤにしても、巻物を食べる或いは御言葉を食べるとは、心に消化するまで食べ尽くすことを意味します。それは、口には甘い経験なのです。ここでは、腹には苦い経験が記されていませんが、エゼキエルもエレミヤも与えられた御言葉を伝えると、イスラエルの民の反対に会い腹には苦い経験をするのです。

 
 ヨハネが、開かれた巻物を食べると蜜のように甘かったが、腹には苦かったとあります。ポーリーン博士は、黙示録第3巻でそのことについて以下のように解説しています。少し長くなりますが、引用したいと思います。


 「巻物を食べると口には甘いが、腹には苦いというこの出来事で一体何が起こっているのでしょうか。この出来事を二つの側面において考察しなければならないと思われます。この二つの側面とも「遅延」という概念と関連しているのです。世界歴史の終焉の遅延、つまりキリストの再臨の遅延です。ヨハネはこの遅延に失望していたでしょうか。彼は確かに失望していました。ヨハネは黙示録の預言がすぐにも実現し、神のすべての御業が完成することを期待していたに違いありません。ヨハネは、彼が記した黙示録の最後の出来事が、彼の時代に起こるものではないことが分かり失望したに違いありません。それどころかヨハネは、彼が書いた書物を通して、終わりの時代に再び異邦人たちについて預言しなければならないことが分かったのです。


 第2の側面は、ダニエル書の時の預言が終わる時に、もう一つ別の失望が起こることを黙示録10章は示しているということです。これらの大いなる預言が成就することによって世界の終わりが直ちにもたらされる、と信じる人々が起こるであろうということです。このような信じている人々もまた失望するであろうということです」(黙示録第3巻20頁)。


 ところで「第2の側面」において、同じく失望を経験するグループが起こることを知りましたが、このグループに関して、ポーリーン博士は、黙示録講義第3巻15頁で「19世紀における多くの聖書の預言研究家たち」と呼んでいます。


 19世紀の預言研究者たちは、再臨の「遅延」に大きな失望を経験したのです。それはまさしく黙示録10章9節、10節の「腹には苦い」経験を指していました。


 どうして、彼らは「腹には苦い」失望を経験したのでしょうか。指摘されているようにダニエル書の時の預言が終わる1844年にキリストの再臨があるものと確信していたのです。しかし、再臨は起こらなかったのです。そこで、再臨が「遅延」したことに失望したのです。


 その原因は、「預言の時」が終わる時に起こる出来事の解釈が間違っていたのです。預言が示していたのは、黙示録11章1節、2節の聖所の回復のことでした。そのことについては、11章1節、2節で学ぶことになります。


 再臨の「遅延」が「腹が苦くなる」失望の経験を与えました。その原因は、「預言の時」が終わる時の出来事に関する解釈の誤りによって引き起こされたものである事がわかりました。


 その「腹に苦い」経験をする解釈の誤りを、黙示録10章6節と7節の聖句をつなぐ「反意接続詞」によって、ポーリーン博士の興味ある説明が、黙示録講義第3巻15頁〜16ページに載っています。それを引用します。


 「もしダニエル書の時の預言がこれで終わるとすれば、1844年にキリストがお帰りになるに違いない、と彼らは考えました。しかし、彼らは間違っていました。彼らは、黙示録10章の一つの言葉を見失っていたからです。それは黙示録10章7節の冒頭にある『しかし』という言葉でした。『(しかし)第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する』


 『しかし』という言葉のギリシャ語は強い反意接続詞が用いられていて、英語の『but』よりも強い反意を示す言葉です。時の預言は確かに終わりました。もはや時はありません。しかし、第6の天使ではなく、第7の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就するのです、というのが真意なのです」(黙示録講義第3巻15頁〜16頁)。


 ※「反意接続詞」−英語でadversative,(名詞)反意[逆接]接続語《but,yet,howeverなどの接続詞・接続副詞》、(形容詞)<言葉など>反対を表す。


 私は、上記のポーリーン博士の「反意接続詞(but)」について、さらに、10章6節と反意接続詞で結ぶ7節の意味を考えました。以下はポーリーン博士の上記の引用についての私なりの理解を述べておきます。


 それを説明するには、「もはや時がない」(10:6)との関連で預言の理解がまたもや大事になります。


 それは、6節の「もはや時がない」と7節の「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する」との間に、ギリシャ語の聖書には、反意接続詞「しかし」英語で(but)が入っているのです。日本語訳の聖書、新共同訳、口語訳、新改訳には「しかし」という反意接続詞が訳されていません。英語のNIV、KJV、NASBには接続詞(but)が訳されています。


 この接続詞「しかし」、英語では(but)は、6節と7節との間に時間的な間があることを示唆しています。つまり、「もはや時がない」ということが起こって、それから一定の期間を経て、「しかし、第七の天使がラッパを吹くとき・・・」と続くのです。


 つまり、「もはや時がない」という出来事の後にすぐ再臨があるのでなくて、第七の天使がラッパを吹いたとき再臨が起こるのです、という意味になると思います。


 確かに、6節と7節との間に、接続詞「しかし」(but)がなければ、「もはや時がない」のすぐ後に「第七の天使がラッパを吹く」とキリストが再臨されて「神の秘められた計 画」天国が直ちに実現するのです。ヨハネにとっても、後の預言の研究者にとっても大きな喜びをもたらすはずのものでした。


 しかし、実際にヨハネが理解したのは、キリストの再臨が直ちにあるのではなく、一定の期間を経て、再臨があるのを知ったのです。それは、再臨の「遅延」ということでした。後の預言の研究者も同じ経験をしたのでした。それは、失望、腹には苦い経験でした。


 「すると、わたしに語りかける声が聞こえた。『あなたは、多くの民族、国民、国語の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。』」 ここでは、失望から立ち上がって、再び全世界の人たちに神の言葉を伝えなければならないことが示されています。


 マタイ24章14節を見ますと、そのことが記されています。「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に述べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24:14)。


 では、どのようにして、失望から立ち直り、キリストの再臨がなされるまでの間、何を伝えるのでしょうか。


 失望から立ち直る神の御言葉の解釈は、黙示録11章1節〜2節に記されており、また、伝えるべきメッセージの内容も11章1節〜2節にあると言えます。